こじんてきなおはなし

自分の絵の考察。を。

まあ講評ノートに描けばいいんだろうけど。ちょっとね。

イメージ・イメトレ。
することの意義。それにともなって、ドローイングの意味・意義。
が少しだけ分かった気がする。まだ確定じゃないから「気がする」なんだけど、そーゆーことだと思う。ていうか、そうなんだよね。今まで漠然と、しなきゃいけない、って思ってた。なぜかは分からないけど、なんとなく。だけど、今は確実にするべきものだと確信した。「なぜ」しなければならないか、も。

モチーフ、は単にきっかけ。
フォルムだったり、色だったり。
言葉はモチーフとそんなにかわらない。見えるか見えないか。分かりやすいか、分かりにくいか。だけど今の私の力から考えると、言葉はまだまだ難しい。見えないから。見えないっていうのは、形が見えないからきっかけがつかみ辛いだけで、イメージが、っていうんとはまた違うかなあ。あと描きすすめて、たち返りやすいかどうかもあるかな。

いいたいことを単にぶつけるのは誰でも出来る。子供の絵なんかがそう。いいたいことを過剰に、強調しまくってぶつけてる。いいたいことを言い切ってるし、全てが過剰だから分かりやすい。だから子供の絵がすごいんだよ。
で、私が今考えなきゃいけないのは、「いいたいこと」をどういう形で表現するか。どういう風に「魅せたい・見えたい」か。そのために、自分はどうしてやるべきか。単純に、構図や色だったりもするけど、そうじゃない部分の方が確実に大きいんじゃなかろうかと思ってる。(もちろん、だからと言って軽視していいわけでないし。ある程度自分のスタイルを確立するのは当然の助動詞。で、そこからまたどれだけ発展していけるかも見据えていけないとダメでしょ。それらを踏まえた上での発言ですから)
そしてまずすべきことは、イメージを「深く」もつこと。そのイメージが「自分で実感の持てるイメージ」でないと「深さ」はもとより、まず言葉になってくれない。自分で実感の持てないイメージというのは、本当に単なる記号でしかない。もしかしたら、記号ですらないかも知れない。「実感の持てるイメージ」があればあるほど、確かに苦悩もおおきくなる。けど嬉しい苦悩だよねそれは。
どうすればいいか、をわかってしまって機械的にやってしまうのも危ないけど、それはきっともう無いから大丈夫かな。
あと、イメージが深ければ深いほど、絵に対する責任がより強くなるんじゃなかろうか。大きく、ぴんと張り巡らされた絵は、責任感の表れだろうね。これは、絵の雰囲気とかサイズじゃなくって、もっと感覚の、本質の部分でのお話。(構図は関係してくるだろうけど)

より、隙の無い絵にするために。自分の絵を見てもらうために。また、自分を、充実させるための、実感するための絵を描く。そのためには、まずはイメトレ(ドローイング)。
っていうお話

で、ドローイングもデッサンも素描も全部同じ意味。
ということはよ。デッサンだろうが、油だろうがって問題は論外なわけで「私の絵は、私の絵」だからそこももっと自覚して取り組まないとヤバイよね。
っていうお話。

デッサンが、油絵が、水彩画が日本画が彫刻が映像が…って確かに手段は違うけど、自分の表現は、自分でしょ?!

まとめ:美術ってたーのしーなー(ぼりぼり

よっしゃ、ドローイングする。